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28日、タレントの新庄剛志・大河内志保夫妻が離婚したことが分かった。新庄の公式サイト「CLUB SHINJO」で連名のコメントが発表された。
新庄は「ただ、ただ自分のわがままで色々な事に挑戦したいという、それだけの思いで二人で話し合い、別々の人生を歩くことを納得してもらえました!」とコメント。
また妻の大河内志保は「15年間沢山の夢を与えてくれてとても感謝しています。これからは陰ながら応援して行くと共に、私自身も彼から新しい人生をプレゼントして頂いたと思い、これからの人生を大切に歩んで行きたいと思います。」とコメントしている。(エキサイト)
「阪神の新庄剛志です。この(レコード大賞の)ステージに上がるのが僕の夢でした」
1992年12月、TBSの人気番組輝け!!日本レコード大賞に川中美幸のエスコート役として出演した際に第一声として発した言葉。広報を通さずに出演したため、阪神球団を大いに慌てさせた。TBSによると、「本人から出演承諾をいただいており、てっきり球団も承認して下さったものと思っていた」とのこと。
「野球に対するセンスがないって見切った」
1995年、引退宣言の記者会見の場で。どうやらJリーグに転職するらしかったが、翌日に撤回し、ファンや記者をあ然とさせた。実は確執の相手であった藤田監督を悪者にしたくなかったための苦肉の策の一言であったらしい。どんなに嫌いでも「藤田監督が大嫌いだから」とは言えなかったという。
「父の命には代えられませんから」
引退撤回時の一言、かねてから体調が思わしくなかった父の病状が悪化したと母から電話で聞かされたのだが、実はこれは新庄に引退を思いとどまらせるために母が打った策であり、その時当の父親は近所の行きつけの飲み屋で引退撤回の祝杯をあげていた。
「僕は盗塁に興味がないんです」
阪神時代、就任したばかりの野村監督に「なぜ盗塁しないのか」と尋ねられて。
「僕は外人になりたいです」
1997年シーズン開幕前、阪神ファン激励の集いでファンに「今年は何をがんばりたいですか」と聞かれ。
「明日も勝つ!」
1999年9月10日の試合後のヒーローインタビューで。しかし翌日からチームは12連敗。別の試合でも2回言っているがどちらも完敗している。ただ新庄に限らず、競技全般で「明日も勝つ」や「優勝」を口にすると実現しない事が多いというジンクスがある。ちなみにこのジンクスは日本ハム入団とともに消えたが、阪神は敗れている。
「巨人って、巨人というブランドに選手達がしがみついているだけなんじゃないの。選手一人一人は全く個性がない。あんな人気、いつか潰れちゃうよ」
「巨人へ行ったら選手の個性はみんな潰されてしまう。あそこは特別。阪神も大阪の人気チームだったけど、巨人のようなことはなかった。もっと伸び伸びと自由な空気があった。俺は死んでも巨人なんかには行かないよ」
「両方カンタン!」
野球に出るのとCMに出るのどっちが難しい?という問いに答えて。
「やっと自分にあった球団が見つかりました。その球団は、ニューヨーク・メッツです!」
阪神時代、FA宣言した際の記者会見の場で。
「ジーンズが似合わなくなるのが嫌だから、下半身は鍛えたくない」
「ウエイトトレーニングをしないのか」の質問を受けて(前述のように真意は違っていた)。その後は考えを改め、サイズが変わらないように上手く下半身トレーニングを行っている。
「あれってミアミ?」
メジャー在籍時のバス(?)遠征中、道路標識に「MIAMI」(マイアミ)と書かれていたのを見て。通訳は「あれはマイアミ」と答えたが新庄は「でも普通に考えたらミアミか、マイアマイじゃん」と譲らなかった。
「バント? ムリオだね。右打ち? 意味ナシオ」
新庄はこの「ムリオ」「意味ナシオ」で流行語大賞を狙った。
メジャーリーグ時代、テレビ番組のインタビューで「もう俺、エーペだから」と答えた。「エーペって何ですか?」と問われ、「知らないの? 英語ペラペラのことだよ。三重じゃ有名!」と言って笑っていた。キャスターが「新庄さん、出身、大阪ですよね?」と質問すると、すかさず「あっ、俺、福岡!」と答えた。
「俺もアメリカ人だから戦わないと」
ニューヨークで同時多発テロが発生したあとのインタビューで。
「う、うれしいっ…!!!」
02年5月にフロリダ・マーリンズ戦でMLB日本人選手初の満塁ホームランを打ち、試合後に記者から「イチロー選手よりも先に達成されましたね!」と水を向けられて。
「Movie Star」
アメリカ最後の年、メジャー昇格した新庄が一塁に出塁すると、一塁手から「来季はどうするんだ?」と声をかけられ、本人も「まだ分からない」と喋ったあとに「ムービースター」と言い出した。ちなみに全て英語での会話である。一塁付近にマイクが仕掛けられているのを知った上でのネタ発言だという。当然の如く、日本でニュースのネタになる。
「チームが最後まで(ワイルドカード枠を)争ってたから、個人的なことでチームに迷惑を掛けたくなかったんです」
チームがプレーオフ進出を決めた直後の2002年の最終戦、400打席のインセンティブ契約を結んでいたが、あと6打席足りない状態で6番で先発した新庄に「何で今まで黙っていたんだ!あと6打席だろ!そしたら今日だって1番に入れたのに!」と言ったベーカー監督に対して。最終的に400打席には2打席足りなかったが、この試合で新庄は2度、ランナーとして一塁から本塁を奪い、チームメートの若手2人、メジャー初スタメンのコーディ・ランサムと同じくメジャー1年目のランス・フォードに1打点ずつをプレゼントしており、2人から「ありがとう、君は僕らのヒーローだ!」とお礼を言われている。
「その事には触れないで。思い出したくもない」
帰国後、メジャーでの生活を聞かれて。
「なまら北海道だべさ!」
入団会見の挨拶。後にこの「なまら」は方言ブームの中心として一般に知れ渡ることに。
「MVPはボクのものです!!」
2004年のオールスター直前の本拠地最終戦でお立ち台に立ったときにオールスターのことを振られて。
「本当に獲れるとは・・・思ってました!」
2004年7月11日のオールスターゲームにてMVPを獲得した際のインタビューで。
「これからは、パ・リーグです!!」
同じく、2004年7月11日のオールスターゲームにてMVPを獲得した際のインタビューで。
「夢のメジャーリーガーになるために楽しんでプレーしたかばい!」
2004年9月に日米野球の全日本チームのメンバーが決まり、彼が選ばれた時のコメント。
「札幌ドームのロッカールームは携帯電話の電波が悪いから悩んでいたが、今度アンテナを付けてくれることになったので残留した」
2005年11月に日本ハム残留を発表した記者会見の場で。もちろんこれは冗談で、少し前に道新スポーツで現役続行が伝えられたときには「(体力的に)あと1年は現役を続けられそうだったから」と言うようなことを語っていた。
「メジャーリーグでは英語ばかりで、これでやっと日本語で話ができると思ったら監督が外国人だった」
日本ハムの入団の気持ちを聞かれて。
「知ってる? オレ、背番号23だったんだよ。一番、楽しかったころ。マイナーね」
マイナーリーグ時代のユニフォームを着たファンに出会って。
「ベストドレッサー賞はメジャーでもらった野球の賞より嬉しい」
ベストドレッサー賞受賞会見で。
「今日のヒーローは僕じゃありません。みんなです!!」
2004年9月20日の対ダイエー戦(札幌ドーム)でサヨナラホームラン(だが前の走者を追い越して、サヨナラヒットになった)を打ち、お立ち台で。
「今年の俺のゴールデングラブ賞はおかしい。1年間この賞を心の中で目指して取り組んでいた選手に申し訳ない。来年からは、印象ではなく数字で選んでほしい。そうでないとこの素晴らしい賞の価値がなくなってしまう」
2005年にゴールデングラブ賞を受賞した際の発言。このシーズンはケガでシーズンを通して働けず、守備も納得のいくものではなかった。守備に対して大きな誇りを持つ新庄らしい一言である。
「名古屋の方には申し訳ないけれど、日本シリーズは甲子園でやりたい」
古巣である阪神に対する強い思い入れから、2006年のレギュラーシーズン1位通過会見で。この発言に対しては「ちゃんとした成績(リーグ優勝)を残してから言え」「まだ日本ハムの優勝が決まったわけでもないのに失礼だ」との批判も起きた。これについてはかつて阪神時代に名古屋の街は好きではないという発言も深く関係していたと思われる。結局、日本ハムはプレーオフを全勝で勝ち抜いたが、阪神がセ・リーグを制覇することはかなわなかった。
「8番以外ならなんでもいいよ」
日本ハムへの移籍が決まり、インタビューで希望打順を聞かれたときに発言。新庄は「投手の前ってのは嫌なんですよ」と語ったが、坪井が「DH」と突っ込みを入れ、「なら、どこでもいいわ」と笑って答えた。
「プロ野球の存在意義は、その街の人々の暮らしが少し彩られたり、単調な生活がちょっとだけ豊かになることに他ならない。ある球団が中心で物事を進ませるセ・リーグにはない、野球くささをパ・リーグは持っている」
球界の趨勢が1リーグ制に傾きかけている時、日刊スポーツ誌上で。
「引退後に行ってみたい所は網走刑務所。理由は有名だから」
「北海道で、今後行ってみたい場所は?」に対し、日本シリーズ制覇翌日に札幌ドームで行われた引退記者会見にて。
「2位でいいよ、2位で」
2004年のシーズンオフの自主トレのさいのインタビューにて記者の前で来シーズンの意気込みを問われた時。
「俺、毎日が日本シリーズなら4割打てるわ〜」
2006年の日本シリーズ中に飛び出した発言。ちなみにレギュラーシーズンでは、新庄は不思議なことに観客の数が多くなればなるほど打率が飛躍的にアップしていた。週刊ベースボールの記事によると、札幌ドームで観客が4万人を超えた日の新庄は打率が4割に達していたとのことである。
「NEVER MIND WHATEVER I DO!FAN IS MY TREASURE.」
2006年のオールスターで新庄のベルトに流れたファンへのメッセージ。「ほっとけ、俺の人生だ。ファンは俺の宝物。」という意味(本来のパフォーマンスは神宮球場の上からヘリコプターで降りてくる予定だったが国の許可が降りず断念)。
「MVPですか?今年はもう無理ですね。MBPぐらいかな、Most Bakushou(爆笑) Player。爆笑取ってきます」
「北海道に来て良かった。メジャーとか、いろんなとこまわったけど一番北海道が自分に合っていた」
日本ハムリーグ優勝時の祝勝会での発言。
「今日、この日、この瞬間を心のアルバムに刻んで、これからも俺らしく行くばいっ!」
引退セレモニーでユニホームの下に着ていたシャツの背中に書かれていたファンへのメッセージ。
「残りわずかな野球人生 明るく楽しく 白球を追い掛けることを 今日この日 みんなに約束します」
引退セレモニーでオーロラビジョンに映し出されたファンへのメッセージ。ポストシーズンへの意気込みも兼ねている。
「この(優勝)記者会見カタい。もっと明るくいきましょうよ、ね? 淡口さん」
感動の涙で終わった試合のあと、しんみりした会見場の雰囲気を自ら和ませるために言い放った一言、全く関係ない場所にいた淡口に突然話が振られて場内が笑いに包まれた。
「いやあ、(強運)を持ってるわ、俺。このマンガみたいなストーリー。出来すぎって思いません? 今後、体に気をつけたいと思います」
日本シリーズ制覇後の会見での発言。引退を宣言した年にリーグ優勝、さらには本拠地札幌ドームでの日本シリーズ制覇という展開を自ら比喩した。(ちなみにこの日本シリーズ前の会見では「引退の年に日本一になったら死んじゃいます、僕」と発言している)
「北海道で種を蒔き、フロント、監督、コーチ、選手で毎日、一生懸命水を与え…やっと3年目にして花が咲かせることができれたんじゃないかな、と。その花の色はとても美しくて、逞しい金の…金色の花が咲けたことに、凄く…嬉しく思ってます」
引退会見でのコメント。ファイターズに来てからの3年間のことを自らの登場曲(福山雅治の「美しい花」)に引っかけて的確に、そして美しく言い表している。
「俺の華麗な守備を魅せられなくなるのは残念だけど、引退の年にゴールデングラブに選ばれるなんて(強運を)持ってるわ。日本ハムがこれからも最強の外野陣をつくっていってくれる事を信じて外から応援しとくばい!!」
2006年、10度目のゴールデングラブ賞の受賞が決まった時のコメント。
「よかったじゃん」
弟分の森本稀哲に背番号1が受け継がれることが決まり、森本から報告のメールが来たときの返信。この一言をもって正式に背番号1が森本に継承された。
「新庄えらい男」
インテリジェンス社の「DODA」CM出演契約を結んだ時の会見の時のコメント。新庄の現役引退後最インテリジェンス初のテレビCMで、自らの名刺には「インテリジェンス営業本部・スーパーエグゼクティブオフィサー」(SEO)という肩書きが「用意」されたが、新庄は「まぁ、判りやすくいえば新庄(S)えらい(E)男(O)ですか」とコメントをしていた。
「『新庄剛志』はもうあの瞬間(日本シリーズ第5戦)に終わったんだ。だからもうサインは打ち止めなんだよね」
元チームメイトの岩本勉との電話で。実際、日本ハム時代に書いていた筆記体でのサインを現在は書かず、平仮名で「しんじょう」と小さく書く位である。これは、ダイドーD-1コーヒーのCMでも確認できる。(Wikipedia)
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出身地: 日本・大阪府大阪市城東区
血液型: O
公称サイズ(2007年時点)
身長 / 体重: 168 cm / ― kg
スリーサイズ: 96 - 56 - 90 cm
本名小山恭子。大阪市城東区出身。帝国女子高等学校(現・大阪国際滝井高等学校)中退。身長168cm、B96cm、W56cm、H90cm。血液型O型。
高校中退後、様々な職種を経て、本名の小山恭子の名でファッションモデルとして活動。
モデル名鑑によるとオスカープロモーションに杉本エルザという芸名で所属していた(本人は否定)。当時の活動は、エキストラとして以外は特に経歴に残るものはない。
1984年頃から叶恭子と名乗り始め、グラビアやカラオケビデオなど、肌を露出した仕事を始める。
出身地: 日本・愛媛県西条市(旧:東予市)出身大阪府松原市育ち
血液型: O
公称サイズ(2007年時点)
身長 / 体重: 170 cm / ― kg
スリーサイズ: 98 - 58 - 91 cm
本名玉井 美香。愛媛県西条市(旧:東予市)出身大阪府松原市育ち。樟蔭東高等学校、夙川学院短期大学児童教育学科卒業。身長170cm、B98cm、W58cm、H91cm。
小学校教諭二種免許を所持している。
高校時代、本名である玉井 美香の名で阪神タイガースを応援する番組「週刊トラトラタイガース」に番組アシスタントとして出演。
1988年、日本テレビ系の深夜番組「11PM」のカバーガールとして月曜日にレギュラー出演。
その後、某プロデューサーの肝煎りで玉乃ヒカリと改名、グラビアアイドルとして活動していた。当時もテレビ出演などの経験があり、新人としてはそこそこ売れていた(叶恭子に比べれば、芸歴では圧倒している)。
叶姉妹では奔放な姉のフォローをするしっかりものの妹(三女)の役。恭子と一緒に出演するだけでなく、単独でのテレビ番組出演も多い。傍若無人ともとれる姉の行動に振り回されることもしばしばだが、それをよくテレビでネタにするなど、したたかな性格でもある。
2000年、映画「サルサ」の主題歌を日本語でカバーしたシングル「サルサ!アマイエクスタシー」をインディーズよりリリース(製造元は東芝EMI)。恭子が作詞を担当。オリコン初登場152位、2週目176位。
2004年、スーパービューティーミカリン+K with キューティーモンすたーズ名義で「O・SU・SO・WA・KE〜プルプルンのキュッのボン!〜」をリリース。自身が出演していた教育番組『モンすたージオ』テーマソングの他、DHCのCMソングとしてもオンエアされた。
2006年4月3日、美香を被写体に恭子が撮影したという触れ込み(実際に撮影したのは素人の恭子ではなく、写真集やDVDのパッケージなど叶姉妹関連の仕事の多いカメラマンの大川直人によるもの)のヘアヌード写真集「Sweet Goddess」が発売された。男性はもとより女性にも広く支持され、20万部を突破するベストセラーとなる。
本名小山晴栄。「はるゑ」の表記もあり。
次女(の設定)。恭子の実の妹。
デビュー当初からしばらく3人で活動していたが、結婚を理由に脱退。2000年に離婚後は、姉妹のマネージャー役を務めている。恭子らが「3人での活動もあるかも知れない」と発言し、復帰も噂されたが、現在までにそうした活動はない。「婦人公論」2007年8月号の恭子へのインタビューでは、晴栄のマネージメントを否定(「マネージャーは美香さん以外にはできません」とのこと)。また、晴栄が二度、結婚と離婚をしていたことも明かされた。
2007年1月に行方不明となり、話題となる。
以前は関西ローカルのスパワールドのCMに出演していたこともあるが、現在は、DHCのCMキャラクターとしても活動中。同社の会誌などにも美香が時折掲載される。
テレビ番組に出演する事も多く、映画の試写会にはなぜかよく招待されていることが多い。テレビに出演するとき、夏でも冬でも常に露出度の高いノースリーブで出演している。
「デヴィ夫人と不仲」と言われるが、意外に共演回数も多く、社交界の友人の1人だとか。
「ロンドンハーツ」(テレビ朝日系)で一回の食事で32万を費やし、好きなものが結果的には高価な物だと発言。「山ほど頼んで、山ほど残す」事も多々あるようで、批判の要因だと言える。
様々なプレゼントをされ「超有名某宝石ブランドのVIPルームで宝石を選び放題」「クリスマスツリーに(クレジット)カードがぶら下げてある」等。数々の高級品をプレゼントされている為、並の物では驚かないらしいが、今まで一番嬉しかったプレゼントは島の権利書、株券等。
独特の美意識が強く、すっぽんの生き血にまだ鼓動する心臓を沈めて飲み、また肉も毎日食べる。シャンパン風呂、サムゲタン(韓国料理で丸鶏や若鶏を用いた薬膳スープの様なもの)風呂に裸で入る事である。2人曰く体全体でコラーゲンを吸収出来るらしいが、専門的な見解は一切無い。
『芸能人格付けチェック』で色々な一流品と一般品を見極めるコーナーで唯一、叶姉妹だけが12問連続正解し「一流芸能人」の座を守った。
睡眠時間は3時間ほどらしく、夜中2時くらいから恭子のデートになるそうだ。
叶恭子
いつも連れている男性達にはA、B、Cランクとあるらしく派閥も存在する。スーパーモデル等、総勢100人近くおり「必需品」と語る。大人数な為、名前がよく被り、被り易い名前は「スチュアート」と「リチャード」。被ってしまうと1号、2号と付け区別する。電話がかかってきて、美香が「リチャード1号から電話ですよ」と取り次ぐと、1号にも関らず、3号と勘違いして会話している事もよくある。デートする人も曜日で分かれている。ホテルの大部屋で大勢の男性達を裸にさせ「人間チェス」を楽しんだり、カラオケに行き自身も全裸となり歌ったり、男性に跨り「お馬さんごっこ」をしている(その後複数で夜もこなすそう)。これを「ダウンタウンDX」(日本テレビ系)で話し、勿論共演者全員驚いていたが平然と「チェスの人間版ってだけの事ですもの」と言い放った。恭子にのめり込み過ぎてノイローゼになり母国に帰ったスーパーモデルもいたそう(美香が「踊る!さんま御殿」(日本テレビ系)に出演した際に暴露)。因みに同時に愛することの出来る男性の人数について「時間的にも肉体的にも6人までなら、男を同時に平等に愛すことができます」と「ダウンタウンDX」(日本テレビ系)で発言した。(無論、設定であると思われる。)
自分が不利になると「美香さんがそう言えって」「ねぇ、美香さん」と言う。
気に入った男性を見つけると美香を使ってナンパさせ、捕まえるまで追わせる。
美香が将来結婚したらその旦那を姉妹共有の性玩具として夜を楽しみたいという願望がある。
自信に溢れた雰囲気とは裏腹に、意外に照れ屋である。
自宅の中では全裸で生活していると語る。
変わり者の多い芸能人でも、理解困難な数々の驚くべき発言から「空飛ぶグータン」(フジテレビ系)に出演した際「30秒に1回面白い事を言う女」と紹介された。
「結婚はお金の為にする」と豪語しており「踊る!さんま御殿」(日本テレビ系)で明石家さんまに「どんな人と結婚したい?」と聞かれると「小さな国でも構わないので、王様ですかね」と答えた。もし結婚した場合も美香と一緒に暮らし、美香が先に結婚した場合も付いて行くのだとか。
「毛皮コートは汚れたら新しいのを買えばいいじゃないですか?」と発言した。
お腹を露出した衣装でイベントに参加したところ、翌日の新聞に「恭子のお腹が弛んでいる」と掲載され話題となった。この報道があってから、恭子は暫く自身のイベントでお腹を露出した衣装は着なくなった。だが美容関連の書籍を出版しているだけあって直ぐに体形を戻し、再びお腹を露出した衣装を着始めた。(その後、肝臓障害になったらしい)
深夜に美香がスケジュール管理をしている時に毎晩の様にデートに行くらしく、「爆笑問題の検索ちゃん」(テレビ朝日系)で太田光に「美香さんは大変そうですけど?」と聞かれると「やるべき事をやっているだけ」と答えた。スケジュール管理は妹に任せているが、デートの誘いを勝手に断られるのは嫌らしい(実際のスケジュール管理は、妹でありマネージャーでもある晴栄がやっているので、「妹に任せている」というのは嘘ではない。)。
本屋に行くと、昆虫図鑑を中心に10〜15万円は購入する。本屋に限らず買い物の荷物持ちは男性達である。因みに買い物はいつも衝動買いであり「最終的には買うのが遅いか早いかだけ」と語っている。
美野里ふるさと食品公社の「ごぜんやまゆずヨーグルト」が好物の一つで、一日5個は食べるらしい。
着用している物の殆どが、姉のお下がりだというが、無論、設定であると思われる。芸能人としての地位やおそらく収入も、叶美香の方が恭子より上と推測されるため。
好奇心旺盛らしく「爆笑問題の検索ちゃん」に出演した際、恭子に「とにかく事細かに聞いて店員を困らせる事がある」と暴露された。
ゴルフが得意。芸能人ゴルフコンペに単独で出場している姿がマスコミでもよく取り上げられる。
連夜姉の世話に追われ、なかなか彼氏が出来ない。また、男性を恭子によく奪われてしまうらしく、今まで奪われた人数は50人である。「付き合っている人やいいなと思う人は、なぜだか皆、姉に奪われるんです。いいなぁと思う人は、次回食事する時はだいたい姉とピッタリくっついているんです。そして1度奪われたメンズは決して帰ってこないんです。」と発言している。この発言に対して恭子は、「奪っているんではなく、勝手に来るんですよ〜」と発言した。ちなみに好みのタイプは「誠実な人」。(Wikipedia)
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人気占い師の細木数子さん(69)が出演するTBS系バラエティー番組「ズバリ言うわよ!」(火曜午後9時)が来年3月までに終了することが26日、分かった。8月のスペシャルでも瞬間最高30・6%を記録するなど、開始から3年半を経ても安定した視聴率を誇る人気番組だが、テレビ出演を減らしたい細木さんが同局に降板を申し入れた。
突然の番組終了も、細木さんは以前から周囲に「もうそろそろテレビ出演は減らしていきたい」と、明かしていたという。今月に入ってからTBSに降板の意思を伝えたもようで、同局も後番組を含めて対策協議に入っている。同局広報担当者は「4月の番組改編は、まだ何も決まっていません」と話す。しかし、ほかの関係者は「『ズバリ言うわよ!』は、2月か3月をもって終了する方向で話が進んでいる」と明かした。
テレビ番組での歯に衣(きぬ)着せぬ発言で人気を得た印象の強い細木さんだが、本業の六星占術による収入が大きく、テレビについては「出演料は微々たるもの」と発言するなど、執着はない。降板は占いに専念するためともみられるが、現在の細木さんの代名詞ともいえる同番組終了が周囲に与える影響は大きい。
細木さんは80年代前半に占い師として人気を得たが、90年代は自らの運勢によりテレビ出演など表立った活動はしなかったとされる。再び脚光を浴びたのは、03年秋の「史上最強の占いバトル細木数子VSウンナン! 芸能人の運命メッタ斬りスペシャル」だった。この特番が高視聴率を獲得、翌年8月からレギュラー番組「ズバリ−」が開始。高視聴率を記録し、正月特番も放送されるなど、同局の看板番組に成長。「第2次細木数子ブーム」を巻き起こし、フジテレビでもレギュラー番組「幸せって何だっけ〜カズカズの宝話」を持つようになった。
ドラマやゴールデンタイムの低視聴率に苦しむTBSが、現在も13〜15%台の安定した視聴率を稼ぎ出す番組を終えるのは大きな痛手で、ドラマ、バラエティーとも大改革が求められそうだ。 (日刊スポーツ)
人気占い師の細木数子さん(69)が、TBSの看板バラエティー番組「ズバリ言うわよ!」の降板を2007年12月に申し出ていることがわかった。番組は08年3月までには終了するようだ。突然降板の理由について、ネットでは様々な憶測が飛び交っている。
「他各番組の降板時期についてはまだわかりません」
細木数子事務所はJ-CASTニュースの取材に対し、「TBSに降板を伝えたことは事実です。細木はテレビ出演をしばらく『休業』したいと話していまして、これから徐々にテレビの仕事は減らしていくことになります」
と説明した。「ズバリ言うわよ!」は細木さんが絶対メインの番組なだけに、08年3月までには番組自体が終了することになりそうなのだが、「テレビの仕事を減らしていく」中で、なぜTBSが最初なのか。同事務所では、「もちろんフジテレビさんをはじめ、これから、降板について各局に説明することになります。各番組の降板時期については、先方のお考えもあるでしょうからまだわかりません」
とだけ話した。
一方のTBS。「ズバリ言うわよ!」は毎回視聴率が十数%と安定していて、07年8月に放送したスペシャル番組は、瞬間最高視聴率30・6%という大人気だった。最近、低視聴率に喘ぐTBSにとって、この番組がなくなるのは相当の痛手のはずだ。TBS広報はJ-CASTニュースの取材に対し、「(細木さん降板は)一切決まっていないし、降板したいという申し出も正式には来ていない」
と細木さん事務所の話を全面否定した。
ネット上には細木さんがなぜ番組を降板するのかについて、「自民党から出馬するつもりなのだろう」「もともと本業で稼いでいて、テレビは趣味とミーハーでの出演だから、突然辞めてもおかしくなかった」「不祥事続きのTBSが嫌になったのだろう」などの憶測が大量に出ている。そうした中に、「TBSと細木の朝青龍へのインタビュー問題」 を挙げるカキコミも出ている。確かに、細木さんとTBSの軋轢があるとすれば、真っ先に思い出されるのが、これだ。
TBSの「朝青龍取材」問題で不信感?07年10月初旬に細木さんが「ズバリ言うわよ!」のスタッフと共に、モンゴルで謹慎中の朝青龍に極秘ロケを行った、という報道があった。謹慎中だからインタビューなど許されるはずはない、と相撲協会はTBSに抗議したが、後に高砂親方が間違って取材を許可していたことがわかり、相撲協会とTBSは『痛み分け』で事は収束した。しかし、ここで宙に浮く形になったのが細木さんの存在だった。
細木さんは後に「女性セブン」07年11月15日号で、「私はTBSの番組のためにモンゴルに行ったんじゃないのよ。友人として見舞いに行ったのであって、私だけだと心もとないのでTBSのスタッフを誘ったらついてきてくれたんだよ」
などとこの「事件」の背景を説明したが、TBS広報はJ-CASTニュースの取材に対し、初めから撮影の目的は、「後々に放送する予定のドキュメンタリーの取材」
で、細木さんと朝青龍の会話などを撮った、と話している。つまりこの取材に細木さんが最初から関わっていることを認め、TBSと細木さんの説明は食い違う形になった。これで細木さんがTBSに対し不信感を持ったとしてもおかしくはない。
ただ、J-CASTニュースが細木さんの事務所に確認してみると、「朝青龍の取材の一件と、今回の降板は関係ない」ということだった。(J-CASTニュース)
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ソフトバンク王貞治監督(67)の二女・王理恵さん(37)が25日、都内で会見し、精神科医の本田昌毅氏(37)との結婚延期を正式に発表した。理恵さんは「前向きな延期」と強調したが、「婚約解消もある?」との質問には「そうですね。それは私にも分かりません」と否定しなかった。関係者によると、本田氏の女性関係について理恵さんが疑いを持ったことで溝が生まれたようだ。この日はクリスマスだったが「(本田氏とは)会いません」ときっぱり。親しい知人によると「2人は一緒に過ごす予定でしたが、会うこともなくなりました」という。
本田氏とは今月10日、プロ野球名球会の総会に出席する王監督に同行してハワイに渡り、14日帰国。帰りの機内で本田氏に延期の意思を伝え「あまりにも交際期間が短かったのかなと感じることがあった。何でも言い合える土台が築けていなかったし」と説明。具体的な原因については「本田さんには直接言いました。直せることです」と話すにとどめた。王監督には帰国後に電話で報告し「2人で話し合ったのならオレは何も言わない」と言われたという。(スポーツニッポン)
大相撲の横綱朝青龍(27)を診察した精神科医、本田昌毅医師(37)と婚約していたプロ野球ソフトバンクの王貞治監督(67)の二女、理恵さん(37)が25日、東京・台場のフジテレビで会見。本田医師との入籍を延期したことを発表した。「彼は今も婚約者」と話す一方、「期間を決めるのはおかしい。お互いを見極めたい」と“無期限延期”を示唆するなど、揺れる心境を明かした。電撃的な“元日入籍”の発表から20日足らずで、今度は“クリスマス婚約延期”会見だ。カメラ12台、約100人の報道陣の前に姿を見せた理恵さんは、「まずは、お詫びさせて下さい。私ごときのことでお騒がせして、申し訳ありません」と、深々と頭を下げた。
突然の翻意は“婚前旅行”とされたハワイからの帰国便の中で起きた。「機内で本田昌毅さんについて書かれた週刊誌を読んで、『延期ということにできないか』と言ったことは事実です」と理恵さん。この記事には本田さんを巡る患者とのスキャンダルなどが記されていた。
この発言の後、何度も「週刊誌の記事がきっかけではありません。小さなことの積み重ねから、です」と繰り返した理恵さんだったが、延期へ踏み切った背景には、本田医師へのさまざまな形の不安があったようだ。
そして、「彼は今でも婚約者です」と話す一方で、「愛していますか?」の質問には沈黙し、「時間を置くこと(沈黙)でどうかと思われますよね。私の中で考え直したい」と肯定せず。さらに“1年間”と報じられている延期期間についても「1年と決めるのはおかしい。タイミングは2人で話し合いたい」と、“無期限”の可能性を示唆した。
王監督はホノルルに残っていたため、帰国後2、3日してから理恵さんが国際電話で伝えた。「父は『2人で決めたなら、オレは何も言わない』と。私が本田さんを紹介した時はすごく喜んでくれた。週刊誌も見ていないでしょう」と、来季限りの勇退を表明している父に迷惑をかけたことを悔やんだ。
最後まで「2人の中では前向きな延期です」と強調したが、「帰国後は1度も会っていません」とも。本来は入籍日だった元日も「まだ相談していません」と会う予定はないという。(サンケイスポーツ)
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23日、漫才日本一決定戦「M-1GP2007」が東京・六本木のテレビ朝日で行われ9組が出場し、敗者復活戦を勝ち抜いたサンドウィッチマンが優勝を飾った。7回目の今回は史上最多4239組が参加。最終決戦にはキングコング、トータルテンボス、サンドウィッチマンの3組が進んだ。
優勝したサンドウィッチマンはフラットファイヴに所属する宮城県仙台市出身の2人組。過去2005年、2006年のM-1GPではいずれも準決勝まで進んでいた。(エキサイトニュース)
サンドウィッチマン
フラットファイヴに所属するお笑いコンビ。1998年9月にコンビ結成。2005年・2006年のM-1グランプリでは準決勝まで進み、2007年では敗者復活戦から決勝前半戦を1位通過、最終決戦でも審査員7人中4票を獲得し見事優勝を果たした。敗者復活戦から優勝を勝ち取った初のコンビとなる。過去にH・R事務局に所属していた。東京進出9年の今でも、コンビ2人でアパートに住んでいる。
伊達みきお(だてみきお、1974年9月5日 - )
ツッコミ担当。パワフルな突っこみはプロの間で定評がある。宮城県仙台市出身。身長170cm。体重88kg。趣味は野球を始めとするスポーツ。ヤクザのような外見をしているため、ネタの中でも「○力団の方ですか?」「出所祝いですか?」などとしばしば使用されている(実際、歌舞伎町を歩いていたら本物のヤクザに「大久保さんですよね?!」と組の偉い人に間違われた事がある)。
漫画「史上最強の弟子ケンイチ」に登場する柔道家「宇喜田孝造」に容貌が似ている。同作の作者松江名俊に、「(実写版の製作が決定した際は)宇喜田孝造役として抜擢されるのでは」と言わしめている。仙台藩家臣で一家の家格をもっていた大條氏嫡流で明治期に伊達姓に復姓した家の出である。
富澤たけし(とみざわたけし、1974年4月30日 - )
ボケ担当。ネタ作りも担当している。東京都生まれ宮城県仙台市育ち。身長170cm。体重76kg。趣味はTVゲーム、ワールドサッカー観戦。言葉の勘違いをするネタや伊達の体型をいじるネタが多い。また、「ちょっと何言ってるかわかんないですね」と言うネタもあり、伊達が「なんで何言ってるかわからないんだ」とつっこむ。
高校時代のラグビー部で知り合う。お笑い芸人になりたかった富澤は当初は別の相方と組んでいたが、本来は伊達と組みたいと考えていた。しかし伊達は就職していた為、退職を待って二人で上京(これは同期だったポプラ並木が上京し、お笑い芸人として活動を始めた影響とのこと)。
本人達はネタ以外ではボケ、ツッコミの役割分担は気にしていないため、フリートークでは自由なポジションで対応している。
元々はホリプロに所属しており、当時はトリオだった(脱退したのは現:「メインストリート」の浜田。)。
敗者復活枠から勝ち抜き、2007年M-1グランプリで優勝。敗者復活枠からの優勝はこれが初めてとなる。(Wikipedia)
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大阪府知事選出馬を要請されていたタレント弁護士の橋下徹氏(38)が5日、正式に不出馬を表明した。
理由は「出演を予定しているテレビ番組の違約金の問題」だという。
実際に「テレビ番組の違約金」は存在するのか。
「あります。金額はさまざまで、選挙出馬なら、タレント拘束料の20%に、残っている拘束期間を掛けたものが相場といわれています。例えば、橋下氏がレギュラー出演している『行列のできる法律相談所』などの人気番組なら、おそらく1年間で拘束料は2000万円程度。契約期間が3カ月残っていれば、違約金は1200万円です」(テレビ局関係者)
だがこれは、番組1本あたりの金額。現在橋下氏は、テレビだけでレギュラーは7本だから、選挙に出ていれば、単純計算で8400万円の負担だ。
そういえば今年4月、東京都知事選に出馬寸前だった丸山和也弁護士(現・参院議員)も、「進行中のテレビ、CMなどへの影響」という理由で断念していた。
その後、参院選出馬の情報が流れたときには、「行列のできる――」が丸山弁護士だけを黒いシルエットで放送するという珍事まで起こった。
前出のテレビ局関係者が続ける。
「今では橋下氏は売れっこで、各局でもメーンコメンテーター級の扱いです。彼を看板に掲げている番組をゼロから作り直すとなると、局側の負担も相当なもの。それに、丸山氏の時のような醜態も、絶対に避けたい。今回は、橋下氏の所属事務所にも相当の“圧力”があったようです」
橋下弁護士は6日、出演したテレビ番組で、そもそも出馬要請はなく、不出馬表明も所属事務所の意向ではないと、訳の分からない説明をしていた。ウラでは相当ドロドロしたものがあったのだろう。(ゲンダイネット)
11日、自民党などが擁立に向けて調整している、弁護士でタレントの橋下徹氏が大阪府知事選に出馬の意向を固めたことが、テレビ各局の速報テロップで報じられた。日テレNEWS24の報道によれば明日12日、大阪府知事選に出馬を表明する、としている。
府知事選の出馬を巡っては、本人や所属事務所などが出馬を否定するなど、同氏の動向に注目が集まっている。(エキサイトニュース)
橋下徹
日本のタレント、弁護士。所属芸能事務所はタイタン(業務提携。同社の顧問弁護士でもある)。大阪弁護士会所属。橋下綜合法律事務所代表。早稲田大学政治経済学部経済学科卒業。東京都渋谷区幡ヶ谷生まれ、大阪府大阪市東淀川区東中島で育つ。血液型はB型。身長174.5cm。
東京都渋谷区幡ヶ谷生まれ。小学6年生時に大阪へ移住。中学3年生時に母が再婚。大阪市立中島中学校を経て大阪府立北野高等学校卒業。中学・高校時代の同級生には現自民党衆議院議員の川条志嘉がいた。中学校・高校時代はラグビー部に所属[1]。北野高校3年時には、第67回全国高等学校ラグビーフットボール大会大阪予選を勝ち抜き全国大会に出場。3回戦で伏見工と対戦し敗退。後に高校日本代表候補に選ばれ東西対抗にも出場する。高校在学中に、日本テレビの『全国高等学校クイズ選手権』に出場し、地方予選で敗退。
高校での成績は進級が危ぶまれるほどだった。現役時代は早稲田大学の2学部のみを受験するも失敗し、1年間の浪人生活を経て、再び早稲田大学5学部を受験。全て合格した中で、早稲田大学政治経済学部経済学科に入学。大学時代に革ジャンの卸売業に携わっていた際、200万円の不渡り手形をつかまされた際に手形法などを勉強したのがきっかけで弁護士になることを決めた。1994年に司法試験に合格。現在、吉本興業取締役顧問弁護士を務める。
ペ・ヨンジュンのような外見から「法曹界のヨン様」「弁護士界のヨン様」と呼ぶ人もいるが、これは「行列のできる法律相談所」での島田紳助の発言から広まったもので、本人は「似てない」と否定している。しかし「まさかのミステリー」でマフラーを巻いてモノマネをしたこともある。また、『週刊文春』の調査で、女性30-50代が選ぶ「テレビ出演しているイケメン文化人ランキング」で堂々の1位に輝き、日本テレビ『行列のできる法律相談所』では「茶髪の風雲児」と称されている。ハーレー・ダビッドソンを運転する。政治スタンスは反米反中の立場。
申告漏れを報道されたため、産経新聞のことを嫌っているが、政治スタンスが近いため産経新聞を購読していると語っている。 競争の土俵に上がれる者は、徹底的に競争させるべきとの立場で、ニートにも厳しい立場。しかし、競争の土俵に上がれない人へのサポートは厚くすべきと主張。生活保護について「病気や障害・高齢者などでスタートラインにすら立てない人を『自己責任』として放置するのは健全な競争社会を破壊する」と発言している。
教育問題に関しては、厳しいしつけや体罰を肯定する発言が多く見られる。テレビ朝日の特番「発足!芸能人PTA」では、子供を50分近くも投げ続けたことを告白し、教育評論家の尾木直樹と議論になった。また、「たかじんのそこまで言って委員会」、「ムハハnoたかじん」等でも、田嶋陽子、原口一博と戸塚宏等と議論をしたことがある。日本の単独自衛を主張しており、『たかじんのそこまで言って委員会』では「日本の一番情けない所は、単独で戦争ができない事だ」と述べた。核兵器保有を肯定し、テロ対策法などを一方的に批判する意見には反発している。男子皆兵制の復活を主張することもある。
橋下は上記のように改憲・右派という部類の弁護士である。実際、地方での講演依頼の中には「憲法9条改正反対」や「核廃絶」などについての依頼もあって、「私は改憲派だし核保有肯定します」と断りを入れると先方がびっくりしていると常々関西ローカル番組内で語られている。そのためか政治的な内容の講演はなるべく関西を中心に「そこまで言って委員会」のネットエリア内に限られ、それ以外の地域では政治的な内容以外の講演なら引き受けている。
このような背景から選挙に勝てる候補として政界進出を求める動きがあり、2007年10月には大阪市長選挙、12月には大阪府知事選挙への立候補が取り沙汰されたが、いずれも報道直後に不出馬を表明していた。しかし、2007年12月11日に再び、大阪府知事選挙への立候補の意思があると報じられ、マスコミの報道が出馬と否定に割れる事態となった。同じタイタン所属の山中秀樹とは「山ちゃん」「ハッシー」という仲である。(爆笑問題の田中裕二から「気持ち悪い」と言われたことがある。)好きな音楽はORANGE RANGEの花(小説いま、会いにゆきますに感動したと同時に、このシングルがこの小説の世界観と大変マッチしていて、聞くと号泣してしまうほどと公言)(たかじんのそこまで言って委員会より)
大阪で弁護士活動をしている中、高校時代の先輩からラジオの代理出演を依頼され、偶然その時の放送を聞いていた朝日放送のプロデューサーに出演依頼を受け、朝日放送『ワイドABCDE〜す』にジャーナリストの大谷昭宏と共に出演するようになる。大谷とはその後もスーパーモーニングやムーブ!で共演するなどしている。この番組で火曜に出演していたデーブ・スペクターが橋下の存在を知り、東京に出演テープを送ったことから在京キー局各社に名前が知られるようになった。2003年4月に全国ネットで日本テレビ『行列のできる法律相談所』に久保田紀昭弁護士に代わりレギュラーに、同年7月に読売テレビ『たかじんのそこまで言って委員会』のレギュラーになった。番組内での言動で次第に全国的に知名度があがり、同時期にデーブと共にレギュラー出演したTBS『サンデージャポン』での発言が問題となり降板した(詳細は後述)。
その後関西ローカルの番組を中心にレギュラー番組を持つようになる。現在、大阪を拠点とした弁護士活動、レギュラー番組の出演、また全国で講演会活動などを行っている。2005年10月24日放送の自身のレギュラー番組であった『笑っていいとも!』を過労により倒れたため休んでしまった。芸能プロダクション・タイタンにマネージメントを依頼し、バラエティ等に積極的に出演している。
しばしば下ネタや、タレント・文化人を批判する発言(特に『行列のできる法律相談所』ではしばしば発言が問題になる)をする一方、ワイドショーなどでは事故・事件・時事問題に対し強く言及する行動も見られる。また、司法問題や法曹界全般、弁護士・裁判官の資質に至るまで幅広く批判している。そのため、所属の大阪弁護士会には懲戒請求が絶えないという。(本人談)大阪に事務所があり、出演前後に公判を入れることがあるため、出演は関西ローカルの番組が多い。
2006年5月23日、大阪国税局から本業である弁護士業務の経費計上等にかかわる約2500万円の申告漏れを指摘され、修正申告に応じたことが報道された。以降、出演番組(特に『たかじんのそこまで言って委員会』)で「脱税弁護士」「脱税の出来る法律相談所」「昔はトライ、今は税金ノックオン」等と揶揄されることがある。また、事件についての報道がされなくなった後も、島田紳助などにはこの件についてしばしば「税金を理解していない弁護士」などと揶揄されている。また、この件を報道した産経新聞をブログ内で批判し、それを報道した週刊文春にも、ブログ内で批判した。最終的には産経新聞に訂正記事を掲載させた。
1998年に大阪市内に橋下綜合法律事務所を設立する。高校時代から交際の続いていた女性と同棲を経て結婚した。3男4女の父親であり、子だくさんとしても有名だが、2007年8月に7人目(四女)が誕生した。本人と夫人曰く「ライバルは笑点の山田隆夫と堀ちえみ」(子沢山で知られる山田隆夫は4人、堀ちえみは5人で、合わせて9人である)。2006年6月、父の日にちなんで毎年日本で最も素敵なお父さんを選ぶベスト・ファーザー イエローリボン賞を受賞。この日の前日には、第六子(三女)が誕生したばかりであった。2006年、フジテレビ『スタ☆メン』の番組内で阿川佐和子に対し、ギャグとはいえ「今からでも阿川さんを妊娠させることができますよ」と発言し、周囲を唖然とさせた。2007年の夏に、第7子が生まれることが「そこまで言って委員会」(2007年3月23日収録・3月25日放送分)収録中にやしきたかじんから暴露され、それを聞いていた勝谷誠彦によって、収録翌日の3月24日の関西ローカルの生番組で明らかにされた。行列の出来る法律相談所ではゲストが驚いたと同時に島田紳助からは「ワンボックスカーに乗れない家族なんて考えられない」と言われた。尚、橋下は同番組で島田紳助から「子供を作る過程が好きじゃないの」、「妻が妊娠している状態じゃないとまともに歩けない」と番組内で散々ネタにされている。丸山和也からは「8人を目指せ」などと言われた。
島田紳助からは行列の出来る法律相談所で「インチキ弁護士」「脱税弁護士」「弁護よりもテレビ出演」「外では散々浮気をしている」と同等にネタでイジられる。過去のネタは以下の通り
「どうして君は友だちがいないのか」の橋下の本に「どうして君は子供は産まないのか」と題名をシールで書き換えて島田紳助が番組に持ち込んだ。
「奥さんとの子作りは時間を問わず」
「奥さんは子供を産まないと(妊娠の状態)でないとまともに歩けない」
「自宅には子供7人いるから外にも何十人も子供が居る」
2006年10月2日放送の『徹子の部屋』で、戸籍での本来の苗字は「はしした」であったが、「はしした とおる」では「橋の下を通る」という意味になってしまうため、住民票を提出する際に「はしもと」へと変更したと語っている。
『サンデージャポン』で日本人団体による中国広東省珠海市での集団買春問題に関して、「日本人による買春は中国へのODAみたいなもの」と発言し批判を受け、生放送で降板を宣言した(正確には降板させられた)。その後、2006年中期から時々ゲスト出演しており、その時には「青空有罪・無罪」の有罪という扱いで出演する(無罪は八代英輝)。先に『たかじんのそこまで言って委員会』で全く同様の発言をしたがこの時は問題に問われなかった。
イラク戦争には反対の立場であり、「大量破壊兵器が無いのに戦争を仕掛けたブッシュ大統領こそA級戦犯として処刑されるべき」と発言している。
建築偽造問題について、マンション住人に自己破産を勧める発言をし批判を受けた。その後、『ベリーベリーサタデー!』内において、「自己破産によって住人の負担を無くし、特例として再度ローンを組ませるという案があってのものである」と弁明した。
附属池田小事件発生時、被告人を速やかに死刑にすべきという寄稿を週刊誌上で行った。その後、死刑を望んでいた被告人から弁護人を通じて早期の死刑実現への援助を依頼する手紙が届く。橋下は、遺族への謝罪という条件付で了承する旨、返答したが、折り返し被告人から来た手紙には、人生への恨みや苦しさが書かれていたが謝罪や反省のコメントは書かれていなかった。橋下は2004年に『たかじんのそこまで言って委員会』でこの手紙の内容を公開・朗読し、また、被告人に対して同情的発言をしていた真宗大谷派の僧侶を指して「こんな手紙を送る奴を援護する京都のクソ坊主に腹立つ」と発言した。
2004年球界再編問題における選手会のストライキに際し、「野球選手がストライキをすると単なる労働者に成り下がってしまう。球団から一々指揮命令を受けないためにも労働者になるべきではない。個人の事業主として集団で契約更改を拒否すればいいだけである」と発言した。
母親が再婚する間に、生活上の金銭の問題で市営団地に住む事を希望したがすぐに入居できなかった。その際地方の共産党に頼んだら入居できたので「共産党は国政では活躍しないが、その下では弱い人間のためになってるので必要」というスタンスを取っている。(たかじんのそこまで言って委員会談)[要出典]
関西系の情報番組で、飛鳥会事件が取り上げられた際、「私はこの飛鳥地区で育ち、ど真ん中で差別も利権の構造も見てきた。親の世代はまだまだ差別に苦しんでいた。」と体験談を語った。
石原慎太郎を尊敬しているが2006年12月17日の『スタ☆メン』で当人が数々の疑惑を弁明するため生出演した際共演していた橋下は「失望した」と批判した。
たかじんのそこまで言って委員会その他ニュース系の番組の中で、いわゆる学者の発言・言動に対して批判的であり、学者の研究活動に関して、「お金の無駄遣い」と発言している、
橋下は、2007年2月23日の『スーパーモーニング』において、共演者の大谷昭宏が「性的な乱れを助長するから」という理由で「赤ちゃんポスト」に反対したのに対し、「子供の命が最優先」として賛成を表明した。
2007年4月12日の『ムーブ!』で、尼崎小学生女児暴行事件について「女の子が服を脱がされたのか、自分から脱いだのかによって話が変わってくる」と述べた。
2007年5月27日放送の『たかじんのそこまで言って委員会』において、「あの弁護団に対してもし許せないと思うんだったら、一斉に弁護士会に対して懲戒請求をかけてもらいたいんですよ」と山口県の光市母子殺害事件の弁護団に懲戒請求を行うよう視聴者に呼びかけた。
事件報道について被害者・被疑者の氏名を匿名にするべきと主張している。被害者についてはマスコミによるメディアスクラムによって精神的にさらにダメージを受けるためで、被疑者については推定無罪や冤罪の可能性もあるという観点からだ。ちなみに被疑者については裁判になり判決確定以降なら実名報道もかまわないとしている。この2点において、逆に原則実名報道派でもある辛坊治郎読売テレビ解説委員(レギュラー出演している『たかじんのそこまで言って委員会』の副委員長)とは幾度となくかなり激しい論戦を繰り広げられている。 (Wikipedia)
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大みそかに放送される第58回紅白歌合戦の出場歌手計56組が4日、NHKから発表された。初出場は、紅組が性同一性障害を公表した中村さんのほか、AKB48、中川翔子さん、Berryz工房、℃−ute、リア・ディゾンさんの計6組。白組は馬場俊英さんと、すぎもとまさとさん。“復活”組では、あみんが25年ぶり2回目、寺尾聡さんが26年ぶり2回目。最多は44回目の北島三郎さん。(共同通信)
大みそか恒例の「第58回NHK紅白歌合戦」(後7・20)の出場歌手が4日、東京都渋谷区の同局で発表された。2月にCDデビューした米国出身の“グラビア界の黒船”リア・ディゾン(21)も初出場を決めた。吉報に英語と日本語をまじえながら「本当に驚きました。ショックに近い気持ちがありました」と驚きと喜びの胸中を告白した。
今年のテーマは「歌の力・歌の絆」。リアは「そもそも日本に来られたのが歌の力。Jポップとの出合いが日本との絆のきっかけです」。昨年4月に歌手を目指して来日し、今年はデビューを果たし、初ライブも開催とスター街道をばく進中。「多くのことを学んだ1年で、沢山の夢がかなった年。紅白で締めくくるということは、1年前に予想していたことをはるかに超えること」と笑顔全開だった。(サンケイスポーツ)
寺尾聰(60)が81年以来、26年ぶりに紅白のステージに登場する。ほかにも女性デュオ「あみん」は25年ぶり、槇原敬之(38)は16年ぶり、昨年再結成された「米米CLUB」は11年ぶりで、長期間出場しなかった歌手の復帰が目立つ。中村美律子(57)、平井堅(35)らも合わせて、今年の復帰組は9組。昨年は3組、05年は5組で、局側は「意識して選んだわけではないが、30〜40代の人に見てもらおうと思った結果こういう人選になった」と説明。「あみん」の岡村孝子(45)は「今年、活動を再開できたことが神様からのご褒美だと思っていたけど、その延長でこんなプレゼントをいただけるなんてうれしい」とコメント。(スポーツニッポン)
NHK紅白歌合戦
日本放送協会(NHK)が毎年12月31日(第3回までは1月3日)の夜に生放送する、紅白対抗形式の大型歌番組。通称「紅白」。会場はNHKホール(1973年から)。デジタル双方向機能対応番組。
国内向けには、NHKの総合テレビ・デジタル総合テレビ・衛星第2テレビ・デジタル衛星ハイビジョン・ラジオ第1放送で放送される。このうち、アナログ衛星第2テレビではBモードステレオ放送で、デジタル総合テレビ・デジタル衛星第2テレビ・デジタル衛星ハイビジョンでは5.1chサラウンドステレオでNHKホールの臨場感を楽しめる。ラジオ中継では、ステージ上の司会者よりも会場の熱気を実況する中継アナウンサーがメインである。なお、NHK-FMでは放送されない。
海外向けには、NHKワールド・プレミアム(日本時間で翌1月1日の7:20〜11:45(2007年の第58回は7:15〜)にも再放送)、および、NHKワールド・ラジオ日本(地域により数時間遅れまたは後半部分のみの放送だが、2007年以降は東南アジア・アジア大陸地域のみの同時放送となる。)で放送される。また、NHK主体ではないが、海外のケーブルテレビを通じて放送されることがある。
開始時刻は、1967年(第18回)以来長らく午後9時(JST、以下同じ)に固定されてきたが、2部制となった1989年(第40回)から午後7時20分に繰り上がった。その後、開始時刻は年によって午後7時20分から午後8時の間で推移している。第2部の開始は午後9時台、特に1994年以来は午後9時30分に固定されている。
終了時刻は、1962年(第13回)以来一貫して午後11時45分である(総合テレビの場合。放送メディアによって例外もある)。
第1部と第2部の間の5分間(第50・54・55回は10分間)は、その年の最後のNHKニュースを放送する(ただし、デジタル衛星ハイビジョンは別番組となる)。
総合テレビ・BS2・BSハイビジョンはリアルタイム字幕放送を実施(総合テレビ・BS2は中断ニュースも含む)。
その年を代表するアーティストが、女性は紅組(あかぐみ)、男性は白組に分かれて対抗形式で歌や演奏を披露する。
男女混合グループは、男女の人数に関わらずメインボーカルの性別を優先する。例えばEvery Little ThingやDREAMS COME TRUEなら紅組、サザンオールスターズなら白組(メンバーの原由子はソロとして出場する際は紅組で出場)である。
男女のデュエットは基本的に紅組扱いとなる(例外として1978年(第29回)の平尾昌晃・畑中葉子は白組で出場。おそらく、平尾がこのデュエット以前にソロ歌手として白組出場経験があることを考慮したものと思われる。)また、ユニットであるヒデとロザンナも白組から出場した。
複数の男女混合ボーカルグループの場合も紅組の可能性が高いと思われるが、場合によっては枠が空いている組に振り入れられると言うこともあると言われる。(例1972年の第23回に出場した青い三角定規)
ソロ歌手同士の男女デュエットやコラボレーションなどの場合は、各々がそれぞれの組の出場歌手として出場する。1992年(第43回)の堀内孝雄と桂銀淑のデュエットや2003年(第54回)の女子十二楽坊と錦織健、森山良子・BEGIN・夏川りみのコラボレートなど。
美川憲一などのような「女装した男性」は白組から出場するが、2005年(第56回)ではゴリエ(ゴリ)が女装した男性のソロでは初めて紅組で出場した。理由は、実際に歌っているメインボーカルがゴリエ本人ではなく女性(ジャスミン・アレンとジョアン)であるから。逆に、和田アキ子は「m-flo loves AKIKO WADA」として白組で登場した。これはメインボーカルのm-floが男性ユニットのためである。2007年(第58回)では戸籍上は男性の中村中が紅組で出場する。これは本人が性同一性障害というデリケートな問題を抱えている事が原因である。
選ばれる曲は、原則としてそのアーティストのその年のヒット曲である。ただし、例外も多い。たとえば、森進一は1971年のヒット曲「おふくろさん」を今日まで6回歌っている。薬師丸ひろ子のヒット曲「セーラー服と機関銃」を紅白で歌ったのは本人ではなく桜田淳子だった(1982年・第33回)。その回のテーマに沿った歌が選ばれることも多い。
歌の間には、応援合戦やアトラクションが行われる。かつては、ほとんど恒例というべき出し物もあった。
1970年代、紅組では若手歌手によるラインダンスが、白組では組体操が行われた。
出場歌手への激励や出場を祝福するための電報の紹介が行われていたことがあった。特に昭和基地の南極観測隊からの電報は恒例行事であった。2005年(第56回)には南極観測隊からのメールが紹介された。
勝敗は、ゲスト審査員(タレント・スポーツ選手・著名人など)とNHKホールの観客および地上・BSデジタル放送の双方向システムや携帯電話を利用した視聴者の投票で決定する。審査方式は回によって異なる。
過去の対戦成績は白組の29勝28敗である(2006年(第57回)現在)。
勝敗は、トリの後攻である大トリを取ったチームが有利である。
優勝チームが決まると、「○組 優勝!!」の字幕スーパーが画面いっぱいに出る。また、天井から大量の紙吹雪がステージに降りそそぎ(風船は入っていない)、放送終了まで続く。
初期には、優勝チームが決まると、ステージ中央に吊されたくす玉が割れて、紙吹雪と風船と共に紙テープが降った。なお、テレビ番組で初めてくす玉・紙吹雪・風船・紙テープの演出を行ったのがこの番組であり、その後のテレビの演出(クイズ番組等)のさきがけになった[要出典]。
優勝チームの司会者には優勝旗が手渡される。
番組のフィナーレは、出演者全員で「蛍の光」を歌うのが恒例である。ただし、東京オリンピックを翌年に控えた1963年(第14回)だけは、例外として「東京五輪音頭」が歌われた。
合唱の指揮は藤山一郎が死去する前年の1992年(第43回)まで務めた(1971年の第22回は岩城宏之が務めたが、総合指揮者として藤山も出演)。藤山は1957年(第8回)まで歌手として出場した後、東京放送管弦楽団指揮者として出場しており、番組最多出場記録である。
藤山の死後の1993年(第44回)〜2005年(第56回)まで作曲家の宮川泰が務めた(宮川は1972年・第23回でもザ・ピーナッツの歌唱の際に指揮をしていた)。
宮川の死後の2006年(第57回)は作曲家および歌手の平尾昌晃が指揮を務めた。
基本的に、その年にヒット曲を出した歌手が出場する。かつては、紅白に選ばれることは歌手にとって最高の栄誉であるとされ、現在でも、多くの歌手にとってはなお大きな栄誉である。一方、出場を辞退する歌手も少なくなく(B'z、松山千春、小田和正、宇多田ヒカル、Mr.Childrenなど)、出場経験のある歌手が辞退することもある(サザンオールスターズ、松田聖子、GLAY、L'Arc〜en〜Ciel、ゆずなど)。辞退理由は明示されないことが多いが、一般的には、内容そのものに魅力を感じないという以外に、拘束時間・出演料などをはじめ希望が通りにくいためと受け取られている。そうした中で、以前は「拒否組」であったフォークの大物などの出場が決まると、そのたびに注目が集まる(1994年(第45回)の吉田拓郎、2002年(第53回)の中島みゆき、2005年(第56回)の松任谷由実など)。
80年代前半あたりまでは、その年にデビューした歌手は、ヒットしていても出場できなかった。
CD売り上げを重視した選考では演歌勢が不利となり、高年層の視聴率を逃してしまうことになるため、現在では芸能事務所に一定の枠で出場を制限するなど調整を行っている。北島音楽事務所もジャニーズ事務所も基本的に2枠程度である。
ジャニーズ事務所の出場枠は、1993年(第44回)以降SMAPとTOKIOでほぼ固定されている。そのためTOKIO以後にデビューしたアイドルはほとんど出場機会を与えられていない。これは2001年(第52回)と2004年(第55回)にSMAPが辞退した時も同様で、TOKIOのみ出場した。1997年(第48回)はデビュー曲「硝子の少年」を大ヒットさせたKinKi Kidsの出場が有力視されていたが、実現しなかった。ただし、ゲスト出演は出場枠に抵触しないため、1999年(第50回)にはV6と共にゲスト出演している。2004年(第55回)では、タッキー&翼の滝沢秀明が審査員として出演した。
モーニング娘。などハロー!プロジェクトを擁するアップフロントエージェンシーの出場枠は紅白常連の堀内孝雄を含めて3枠程度である。そのため、多数のユニットを抱えるハロー!プロジェクトではユニット同士のコラボレーションやソロ歌手を集めたユニットの結成などでやりくりしている。そのため松浦亜弥や元モーニング娘。の後藤真希、藤本美貴は3度の初出場(最多タイ)を果たしている。
以上の理由から、1974年・第25回に渡辺プロダクションが記録した「同一所属事務所最多出場記録」(後述)の更新は困難となっている。
近年は、海外アーティストの招致にも積極的であり、アジア・南米からも出場者が現れている。2004年のRyu、イ・ジョンヒョンの出場は話題になった。
クラシック音楽系の歌手の出場は極めて少数派である。佐藤しのぶ、鮫島有美子、鈴木慶江、ジョン・健・ヌッツォ、秋川雅史が出場している。
毎年、テレビ視聴率が非常に高いことで知られる。1962年(第13回)の調査開始以降での最高視聴率は1963年(第14回)の81.4%(関東地区・ビデオリサーチ調べ、以下同じ)。1980年代前半までは、「お化け番組」「怪物番組」とも称され、新聞社系の週刊誌でも「紅白で歌われる曲の歌詞一覧」といった特集を組んだ。もっとも、近年は裏番組や生活の多様化などにより、視聴率は低落傾向にある。最低視聴率は2004年(第55回)の39.3%である。
紅白への出演は、翌年初頭のアーティストのCD売り上げに少なからぬ影響を与える。この現象は俗に「紅白効果」と呼ばれている。紅白出演後に紅白で歌われた曲が初めてオリコンシングルチャートで週間1位を獲得した例としては、1986年(第37回)出場の吉幾三の「雪國」(1987年2月9日付)、2002年(第53回)出場の中島みゆきの「地上の星」(2003年1月20日付)、2006年(第57回)出場の秋川雅史の「千の風になって」(2007年1月22日付:クラシックの同チャート1位は史上初)がある。2003年(第54回)に大トリを努めたSMAPの「世界に一つだけの花」は、それまでランクが落ちていたが、紅白出演後の翌年1月5日にオリコンシングルチャートで週間1位に返り咲いた。
司会者や出場者、曲目などが決定すると、そのつど大きく報道される。司会者や初出場者などの記者会見の模様は、NHKニュースはもちろん、民放各局の情報番組でも大きく報じられる。民放の番組で、自局の大晦日特番の宣伝に先んじて紅白報道を行うことも多い。梨元勝によれば、民放に紅白の取材が開放されたのは1981年以降のことであり、そのきっかけとなったのはテレビ朝日「アフタヌーンショー」の突撃取材だったという(『週刊朝日』2006年12月29日号)。
舞台袖の通路は、放送終了後にアーティストが大挙するため、正月明けに民放各局のワイドショーで大きく扱われる。この通路は、和田アキ子が翌年の干支の被り物をして通ることでも有名である。
2003年(第54回)と2004年(第55回)ではそれぞれ翌年の2月11日に総合テレビで再放送が行われた。(Wikipedia)
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タレント、神田うの(32)が8日、大手レジャー産業「日拓グループ」の御曹司、西村拓郎氏(37)と挙式。東京・紀尾井町のホテルニューオータニで「感謝祭」と題した総額6億円の豪華披露宴を開いた。ファッションショーなど派手な演出で沸かせる一方、両親への手紙では、うのも招待客も涙、涙。会見では「家事は今まで通り、しません」と宣言するなど、マイペースの“うの流”を貫いた。
ブライダルデザイナーとして活躍するうのと、パチンコ店経営、不動産業など年商2000億円のレジャーグループ御曹司のセレブ婚にふさわしい、豪華披露宴に招待客は酔った。披露宴の会場となった鶴の間は1150人収容の巨大な広間。771人の招待客に見守られながら、うのは父親に寄り添い、幸せ一杯の表情でバージンロードを歩いた。頭に輝くティアラ、イヤリングなどはベルギー・アントワープから取り寄せたもので、計105カラットのダイヤモンドがあしらわれて、時価3億円。購入ではなくリースだが、庶民には手の届かない、まばゆい輝きを放った。
衣装はうのがプロデュースするブライダルブランドからのプレゼントで、総額4000万円。結婚指輪はプラチナにダイヤをはめ込んだもので、お値段は「秘密」だとか。披露宴の最中には、うのがデザインした33着のウエディングドレスを使ったファッションショーを開催。15人のモデルとともに、うの自身も3着をまとってステージを歩き万雷の拍手を浴びた。しかし、こんな豪華な仕掛けにも増して招待客の心を打ったのは、実にシンプルな演出だった。披露宴終盤、うのは、普通の結婚式同様、両親への手紙を読んだ。「私は神田家を出て、違うお墓に入ります」。天真爛漫(らんまん)キャラのうのが見せた古風な一面。号泣したうのにつられるかのように、招待客はみな涙を流した。それでも、やっぱりうのはうの。披露宴前の会見では「家事は今まで通りしません」「仕事も、遊びも楽しみたい」と、あっけらかん。結婚の実感も「まったくありません」、子供も「コウノトリにまかせます」。入籍は大安の13日に行う予定。そのときには「神田うの」が「西村うの」になった実感がわくのかもしれない。(サンケイスポーツ)
タレントの神田うの(32)とレジャー産業グループの西村拓郎社長(37)の挙式・披露宴が大安の8日、明治神宮(渋谷区)とホテルニューオータニ(千代田区)でそれぞれ行われた。総額6億円の豪華披露宴には777人が出席。うのが企画し「感謝祭」と銘打たれ、ファッションショーには新婦自ら出演。親友の美川憲一(61)が「愛の讃歌」を披露するなど、うのの交友関係の深さを示すものとなった。ニューオータニで行われた披露宴は、うのがデザイナーを務めるウエディングブランド「シェーナ・ドゥーノ」のショーに一変。15人のモデルに加え新婦自ら出演、キャットウオークで彩った。2点の新作を含むドレス3点を披露。ラストで西村氏と腕を組みながら登場すると、招待客771人が拍手喝采。6人が欠席したため、うのが考えていた777人とはいかなかったが、大フィーバーのド派手な“舞台”となった。披露宴はうのの完全プロデュース。「32年の人生で多くの人にお世話になった」という思いから「感謝祭」と名付けた。料理や引き出物、高さ4・7メートルのウエディングケーキ…。ストッキングやジュエリーなどもプロデュースしてきたこだわりは異常なほどで「(料理は)何度も試食を重ねてきりがなかった」(関係者)という。
そんなうのの思いに友人たちも応えた。親友で、同日午前に明治神宮で執り行われた挙式に両家に交じって出席した美川が「愛の讃歌」で祝福。華道家の假屋崎省吾(48)が生け花で会場を彩り、歌手の大黒摩季(37)はこの日のためにバラード「Forever Rose」を書き下ろし新郎新婦にささげた。美川は「19歳からずっと見てきたので感無量です」と研ナオコ(54)らとひと安心の様子。挙式後に単独で会見したうのは「(結婚した実感は)まったくありません」とあっけらかん。「(指輪交換で)彼が間違って小指に入れたんです。2度ハメたんですよ〜。三三九度のときは(酒を)ちょっとしかついでくれないので“もっとついで〜”って思った」と相変わらずの奔放さだ。それでも、やはり披露宴はラストで感動の最高潮に。「母からは、花束とか手紙は湿っぽくなるからやめてと言われていたけど、その約束を破っても一言だけ感謝の言葉を言いたい。ありがとう」。列席者はみんな泣き、新婦もつられて、この日初めて涙した。次回の大安となる13日に婚姻届を提出。晴れて「西村うの」となる。(スポーツニッポン)
神田うの
神奈川県川崎市出身の女優・タレント、ファッション・デザイナー。身長168センチ、体重43キロ。血液型O型。白鵬女子高等学校卒業。スペースクラフト所属。
1975年、東京都目黒区に生まれる。本名でもある「うの」は、持統天皇の幼名「鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ)」が由来であり、幼い頃はこの「ひめみこ」をとって両親や祖母から「ヒメ」と呼ばれて育つ。東大卒かつ東大院修了で旧・通商産業省のキャリア官僚(技官)だった父親(神田淳)の仕事の関係で1歳のときにインドネシアのジャカルタに移住。4歳までインドネシアで過ごしたのち帰国、神奈川県川崎市中原区に居を移す。5歳のときにバレエをはじめる。谷桃子バレエ団に所属。
1990年には、東京新聞が主催するバレエコンクールに入賞。バレリーナとしての将来を期待され、ダメもとで受験した「アジア人はほとんどいない」と言われる、パリにある全寮制のバレエ学校(コンセルバドワール)に見事合格。だが、日本を離れ、フランスでひとり寮生活をおくることに耐えられず、先生たちの期待や希望にそむいて世界的プリマとなる夢は断念する。1992年、17歳で中部全日本バレエコンクールのジュニア部門1位を受賞、東京全日本バレエコンクール入賞。2006年11月5日、うのが23歳のときに出会い、約8年の月日を経て現在の関係になったというパチンコチェーン店、不動産会社を経営する西村拓郎(日拓リアルエステート株式会社社長)と都内料亭にて結納を交わし、13日、報道陣に億単位の婚約指輪(5caratのdiamond)を披露した。2人の弟がおり、その2人もまた芸能界に関わっている。上の弟・神田伸一郎は、東京農工大学大学院中退。ハマカーンというコンビを結成し現在NHK爆笑オンエアバトル等で活躍中。下の弟・昇二郎は、上智大学文学部哲学科卒。俳優希望でVシネマ等に出演。
子どもの頃から街を歩くたびに芸能事務所からスカウトされ、何枚もの名刺をもらい続けるが、家族に反対され実現ならず。本人も「芸能」には興味がなかったが、当時からファッション好きだった彼女は、モデル事務所からのスカウトに興味を抱き、親を説得。1989年、14歳でモデルとしてのキャリアをスタートさせる。広告などのモデルを経て、3年後の17歳のときに雑誌『プチセブン』(小学館刊)のモデルに。1999年、毛皮メーカーとのコラボレーションで「コスタ・モーダ・ウノ」ブランドを発表、その後サングラスブランド「U-NO」を発表し、現在ではストッキング・下着(トゥシェ・ウノコレクション)、ウエディングドレス(シェーナ・ドゥーノ)、ジュエリー(デュノア)、の3つの自己ブランドのデザイナーとして活躍中。2005年春には南青山に推定5億円ともいわれる豪邸(通称・パンスト御殿)を建てたことで話題になった。2004年にデザイナーとしてパリコレデビューを果たし、2006年10月にはN.Y.コレクションデビューも果たした。
血液型は公式ページにもあるとおり「O型」であるが、デビュー間もない頃の自由奔放なキャラクターもあってか、(血液型性格分類を信じる人々から)「B型」に間違えられることが少なくなかった。デビュー当時のプロフィールに「B型」と掲載されていた時期もあったが、これは単なる誤植で、ほどなく訂正されている。ちなみに2人の弟も、うの同様O型である。胃下垂なので、痩せる為だけの食事制限=ダイエットをした事がないと発言している。
リアルファーを中心としたブランドをプロデュースしたことで、女優のブリジット・バルドーら動物愛護運動家や動物愛護団体等から抗議を受けた。 (Wikipedia)
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初期の肺がんの治療のため休養中だったニュースキャスター、筑紫哲也さん(72)が、8日放送のTBS系報道番組「筑紫哲也ニュース23」で、スタジオ生出演すると同局が発表した。 筑紫さんは1989年から同番組のキャスターを務めるが、今年5月14日、番組内で自ら肺がんを告白し、治療に専念するため休養していた。7月の同局の参院選特番などに声だけで出演したが、テレビ画面に姿を見せていなかった。8日の番組で筑紫さんは冒頭から終了までスタジオに生出演し、「多事争論」などのコーナーもこなす予定で、がんと向き合ってきた思いや治療内容についても語るという。ただ、9日以降も毎日出演する本格復帰ではないとみられ、今後の出演について筑紫さんは同番組内で考えを明らかにするという。(夕刊フジ)
肺がん治療のため5月からTBS系「NEWS23」を休んでいるキャスター筑紫哲也氏(72)が、8日放送の同番組に生出演することが4日、分かった。7月の参院選特番、9月の安倍晋三前首相の辞意表明の際には声で生出演したが、スタジオに登場するのは降板してから初めて。番組では肺がんの治療過程、がんと向き合った思いを語る予定という。TBSによると、1日限りの出演かは未定。今後の予定について、筑紫氏が番組内で直接、視聴者に説明するという。(日刊スポーツ)
筑紫哲也
日本のニュースキャスター、ジャーナリスト。大分県日田市出身。元、早稲田大学大学院公共経営研究科客員教授(専任扱い)。現在、立命館大学客員教授。血液型A型。東京都立小山台高等学校卒業後、早稲田大学政治経済学部経済学科を卒業。在学中は合唱団「グリークラブ」に所属。朝日新聞社では政治部、返還前の琉球(沖縄)特派員、ワシントン特派員、外報部次長、編集委員などを歴任。政治部時代には内閣総理大臣三木武夫の番記者を務め、自民党ハト派の人脈と親交を深めた。同社記者時代の1977年10月から1982年9月までにかけて『日曜夕刊!こちらデスク』の司会者となる(テレビ番組デビュー作品)。又、タモリと朝日新聞社のCMにも出演した。1984年〜1987年までの間、雑誌「朝日ジャーナル」の編集長。「若者たちの神々」「新人類の旗手たち」「元気印の女たち」の連載で、当時の若者のリーダーたちにインタビューし、対談を通じて時代の気分を探ろう・表し出そうと試みた。この連載で新人類なる言葉を世に広める(新・人類の意と新人の類の意)。シリーズ「日常からの疑問 こんなものいらない」の代表記事は、『現代無用物事典』および『こんなものいらない事典』(いずれも新潮社)として出版され、話題を呼んだ。
1989年10月から、TBSのニュース番組「筑紫哲也 NEWS23」のメインキャスターを務める。評論(特にコラムコーナー『多事争論』)が人気を集める。彼のジャーナリストとしての社会的な発言には、常に毀誉褒貶がつきまとうが、ニュースキャスターとしての手腕はこの番組で確実となり、久米宏と並んで民放のニュースキャスターの顔として広く認知されるに至った。ウォルター・クロンカイトを尊敬しているらしく、クロンカイトに倣ってエンディングで決め台詞「―では、今日はこんなところです。」を使用。又、雑誌「週刊金曜日」の編集委員や、創価学会と関係の深いの雑誌『潮』による「潮賞」の「ノンフィクション部門」選考委員も務めている。1992年12月30日から1993年1月1日まで「元旦まで感動生放送!史上最大39時間テレビ」の総合司会を担当。1995年の一連のオウム真理教関連の犯罪が明らかになった際に、TBSのワイドショー『3時にあいましょう』のスタッフがオウム真理教幹部に坂本堤へのインタビュー映像を視聴させるというTBSビデオ問題が発覚した。これが、その直後の坂本堤弁護士一家殺害事件発生のきっかけとなったとされて、TBSが世間からの非難の嵐にさらされていた(TBSビデオ問題)。この問題に関し、筑紫は自身の番組「NEWS23」でTBSの対応に疑問を呈し続けた。社長が過ちを認めた1996年3月25日のNEWS23他事争論で、筑紫が「TBSは死んだに等しい」と発言したことは、賛否両論を巻き起こすことになった。
1995年1月17日の阪神大震災で、被災地からの生中継で、焼けた建物から上がる煙を見て第一声に「まるで温泉地に来ているようです、そこらじゅうから煙がまいあがっています」といった。また、近年では、北朝鮮による日本人拉致問題に関する一連の報道で、北朝鮮寄りの言動が多いことから、拉致被害者及びその家族や関係者などからは強い非難が寄せられている。辻元清美に政界入りを勧めたことでも知られ、秘書給与流用問題の際には、彼女の政治団体に夫人名義で寄付がされていたことも話題になった。2003年の自民党総裁選では「小泉圧倒的有利」の分析を討論の前に行ったところ、当時、自民党の有力者だった亀井静香「ツクシさんね〜。」と筑紫の事を呼び間違えた。さらに同年の総選挙の際には日本道路公団民営化について「玉虫色の結果になったと言われていますが…。」という発言をし、総理小泉純一郎が激しく抗議すると筑紫は「いや、ですから…。」と言い、当時、民主党の代表だった菅直人が仲裁に入った。
2004年5月13日放送分の「筑紫哲也 NEWS23」で、自身の年金未納(1989年〜92年6月の2年11か月)を謝罪し、翌日から一時番組の出演を見合わせた。イラク戦争に対しては正当性を疑問視し、自衛隊のイラク派遣を含めて積極的な問題提起を行っている。出身地日田市に自由の森大学を創設し、学長をしていた(2006年3月閉校)。イラストレーターの筑紫ゆうなは次女。TBSと専属契約を結んでおり、原則としてTBS系列の放送局以外でのTV出演はしない。ただし、フジテレビの番組・トリビアの泉にVTRで出演したり、年に1回テレビ朝日の特番にゲストとして出演している。リベラル派文化人の代表格だが、保守的政治家との親交が多いことや、議論で追い詰められても反論しようとしないことを理由に、「享楽主義的ノンポリで思想信条は無い」と宮崎哲弥、猪瀬直樹らは批判している。歌手の井上陽水のマリファナ使用問題に対しては、「自分もアメリカでマリファナを吸ったことがあるが、タバコよりは害が少ないことは医学的に明らかであるし、これを日本で使用すると違法ではあるが、そのことと絡めて井上陽水の歌まで否定する一部の意見は間違っている」という趣旨のテレビ発言をし、そのとき一緒に出演していた朝日新聞同僚記者が激怒して話題となったが、極少数の芸能人と若者からは支持を得た。
2006年9月下旬にリニューアルされたNEWS23において、TBSはABCテレビ元アナウンサーで、当時TBSラジオ「アクセス」のナビゲーターをしていた山本モナを採用したが、リニューアル直後に、山本は民主党衆議院議員の細野豪志との不倫をフライデーにスクープされた。これについて筑紫は彼女への言及をテレビではせず(当該フライデー発売日の番組打ち合わせの席で、スタッフに対し「あいつはもうここに入れるな」と激怒しながら言ったということが後に複数の週刊誌で報道された)、その姿勢を勝谷誠彦などが批判した。一方で「人が誰を好きになろうが付き合おうが勝手だが、国会議員と恋愛関係にある人間がその状態を維持したまま、公共性を担保しなければいけないはずの報道番組のキャスターの仕事を請け、実際に出演したということは、ひとつには公人としての社会的背任行為であるし、TBSに対しても損害賠償を求められてもしかたがないほどの行為だ。TBSの取りうる態度は番組内で徹底的に糾弾するか、あるいは山本の将来のことを考えて(オフィス北野との関係もあり)完全に潰さず「病気療養」ということで済ませるかしかなく結局、後者をとったのではないか」という分析もある。ラジオで共演していた宮崎哲弥は山本のことを「とんでもないおおばかものだ」といった。一方かつてから山本とも細野とも親交が深かった勝谷誠彦はそのことには一切言及しないまま「降板させるとはTBSは冷たすぎる、何も言及しない筑紫は冷酷だ」と批判した。
社会民主党の辻元清美に国政への進出を説いた人物である。その辻元に対しては夫人名義で多額の寄付をしている。リベラル派で唯一全国ネットのニュース番組を持っているが、氏の報道スタンスについては批判も多い。特に保守派においてはその傾向が強く、他のコメンテーターを例にとると、宮崎哲弥からは「ノンポリ」、三宅久之からは「無節操・無定見」、勝谷誠彦からは「言論人として謝罪と反省と総括をしろ」「アルツの白髪頭」(ただしマスメディアでは「筑紫さん」)、やしきたかじんからは「目障りじゃ。はよ死ね」など。但しやしきたかじん自体が目障りと感じている視聴者も多い。余談だが、田原総一朗に「右翼から諸悪の根源だとこてんぱんにいわれてますね」と冷やかされ「それを名誉に思わなければいけません」と答えるなど、一貫して自己のスタイルを貫いている。また、たかじん側では、視聴者から、「いじめや、人を殺してるのと一緒」「たばこ、酒をやめちまえ。」などの反感的な意見を買わされている。
滝廉太郎は大伯父(滝の妹・トミが筑紫の祖母)。筑紫自身はかつて「私には音楽の才能がないので、私が『滝廉太郎の親戚』であるということを非常に戸惑っていた」と述懐している。1993年より、竹田市にある滝廉太郎記念館の名誉館長を務めている。2002年5月21日に、母校の早稲田大学で行われた早大創立125周年と野口雨情生誕120年を記念する菅原やすのりのコンサートで、野口雨情の孫・不二子と対面している。ちなみに、作詞・野口、作曲・滝の組み合わせの曲はない。
『日曜夕刊!こちらデスク』の司会者を務めていた頃、“宇宙人と交信しました”というウソのニュースを伝えた。伝えた日は1979年4月1日。ちょうどウソをついてもいい日だからということで伝え、すぐ「ウソです。」と言ったにもかかわらず直後に抗議の電話が殺到。生放送中に抗議の電話に応対する羽目になった。此の模様は後に新聞で取り上げられた。後にこのニュースはフジテレビの「トリビアの泉」で紹介された。
久米宏とは平日夜のニュース番組の視聴率を激しく争ったライバルだったが「広島東洋カープのファン」という共通項があったため、日刊スポーツの企画で1991年の西武ライオンズとの日本シリーズを仲良く観戦した。
2005年9月11日、TBSで放送の第44回衆議院議員総選挙の特別番組(開票速報)『乱!総選挙2005』で、メインアンカーとして参加し、元『ニュースステーション』の久米宏と実に14年ぶりの共演となった。「乱!総選挙2005」の視聴率は、民放で第1位だった。
2003年4月10日に福岡ドームで井上陽水・武田鉄矢らが中心となって開催されたコンサート「ドリームライブ in 福岡ドーム」のオープニングで「多事争論」の収録を行ったが、その時カメラマンを務めたのは南こうせつだった。しかし「福岡ドーム」と言うべきところを間違って「東京ドーム」と言ってしまい、南こうせつからそれを指摘されていた。 (Wikipedia)
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元横綱若乃花の花田勝氏(36)が美恵子夫人(38)と離婚したことが3日分かった。夫妻がマスコミ各社へのFAXで明らかにした。2日に正式に離婚届を提出した。書面では、「2人で時間をかけて話し合い、このような結果となりました。出逢えたこと、4人の子供を授かったことなど13年間の結婚生活に感謝しています」と連名でサインが記されている。離婚の理由は明らかにされていない。 2人が出会ったのは、美恵子さんが日本航空の客室乗務員時代だった。
美恵子さんの1年先輩で、当時を知る客室乗務員は「か細い感じで抜けるような色白の美恵子さんは、とても物静か。それでもひときわ目立つ存在でしたが、自分から率先して仕事をこなすタイプではなかった。フライト先でもみんなでワイワイ食事に行くようなタイプではなかったが、たまたま参加した合コンで若乃花関に見初められたようです」となれそめを振り返る。美恵子さんは成城学園高校在学中から雑誌『オリーブ』のモデルとして活躍。成城大学卒業後の1991年に国際線のスチュワーデスとなったが、94年に若貴ブームの中、若乃花に“永久就職”した。若乃花はその後、95年には横綱に昇進し、史上初の兄弟横綱となった。美恵子さんは故障に苦しみながらも奮闘する夫を陰で支え続けた。
若乃花は、2000年の3月場所中に引退を表明。年寄り「藤島」を襲名したが、引退後間もなく、相撲協会を退職すると、夢だったアメフト選手をめざし渡米するなど、タレントやスポーツキャスターとして活躍。ここ数年は、実業家としてちゃんこ店「ChankoDining若」など飲食店を手広く経営していた。花田家はこれまで、弟・貴乃花(一代年寄)との不仲問題や、藤島親方と藤田憲子さんの離婚問題など、トラブルが続出していた。(夕刊フジ)
花田勝
実業家、タレント、スポーツキャスター、元大相撲力士(第66代横綱)、アメリカンフットボーラー。東京都中野区出身。力士時代の四股名は若乃花 勝(わかのはな まさる)。父は元大関・貴ノ花利彰(本名・花田満)、母は女優の藤田憲子、弟は第65代横綱・貴乃花光司。義妹(弟の妻)に元フジテレビアナウンサーの河野景子、親戚に米米CLUBの石井竜也・金子美奈子兄妹がいる。得意料理はナスの浅漬け。上背はなかったものの、強靭で巧みな足さばきを生かして多彩な技を繰り出し、技能派の名人力士として知られた。また人当たりのよい性格で話術にも長け、力士時代から「お兄ちゃん」の愛称で親しまれる。容姿や相撲の内容は実父・貴ノ花健士よりも伯父の初代・若乃花を髣髴とさせた。
1988年3月場所初土俵。弟の貴花田光司(貴乃花)と共に順調に出世し、1990年3月場所新十両。同年9月には新入幕を果たした。入幕して最初の頃は天性の勝負勘と強靭な足腰で相手の攻撃を凌いで技を繰り出して勝つという勝ち方が多かったが、1992年後半頃からおっつけに磨きがかかるようになり、成績も伸びていった。そして1993年3月場所に小結で初優勝。同年7月場所には13勝2敗で曙、貴乃花と共に優勝決定巴戦に出場。優勝は逃したものの、場所後大関に昇進した。大関昇進後も順調に土俵を務めていたが、1994年11月場所前に右腰を痛めてからしばらく低迷する事になる。この間曙を倒して弟貴乃花の優勝の援護射撃をするという場面は見られたものの、自身が優勝を果たすまでにはいかなかった。1995年11月場所に弟貴乃花との優勝決定戦を制して漸く2回目の優勝を果たすが、翌場所は不調で一つも勝てずに途中休場してしまい、周囲をヤキモキさせた。しかし1996年中盤頃から復調の兆しが見え、1997年1月場所は初日から完璧な相撲で14連勝して14日目に3回目の優勝を決めた。千秋楽は武蔵丸に敗れて全勝優勝はならなかったものの、若乃花の土俵人生の中で最高の相撲を見せた場所となった。綱取りが大いに期待され、その期待に応えるように翌3月場所も絶好調だった。しかし3日目の旭鷲山戦で右大腿二頭筋を断裂し、途中休場で綱取りは全くの白紙となってしまった。しかも全治3か月の重傷で、7月場所に復帰したものの、序盤に3連敗する等、絶不調で引退を囁かれるまでになってしまった。
この場所は何とか勝ち越して引退の危機は乗り切ったが、怪我の箇所を考えると「もう上は望めないのではないか」と言われるまでになってしまった。しかし、1998年3月場所、突如爆発するかのように、初日から完璧な相撲を取り、14勝1敗で4回目の優勝。翌5月場所も中盤苦戦したものの、千秋楽に武蔵丸を破って何とか連続優勝を果たし、横綱昇進を決めた。12勝という低いレベルでの優勝だった為、「もう一場所見るべきではないか」という声もあったが、横綱審議委員会で反対論は全く出ずに、あっさり決まった。横綱土俵入りでは「短命」のジンクスと言われる不知火型を選択。隆の里が中心となって、琴櫻や初代若乃花までが登場して土俵入りを指導した。若乃花らしい切れのあるきびきびとした土俵入りであった(当初は弟貴乃花が土俵入りを指導するものと思われていたが、貴乃花は姿を見せなかった。そしてこの頃から二人の確執が噂されるようになり、これが明らかになるのは1998年9月場所前の事である)。
史上初の兄弟横綱として多くのファンに活躍を期待されたが、一方で約5年間の大関在位で多くの怪我に苦しんだ事も有り、また不知火型のジンクス通りに短命になるのではないかという懸念の声も聞かれ、その悪い予想は的中してしまう事になる。1998年9月場所と1999年1月場所は最後まで優勝を争ったが、それ以外の場所は故障等でガタガタで、1999年3月場所以降3場所連続休場する事になる。復帰した9月場所は10日目に左足の肉離れを起こしてしまい、周囲の休場勧告を無視して強行出場、結局7勝3敗から終盤5連敗して負け越した。横綱の皆勤負け越しは15日制が定着してからは史上2人目(大乃国以来10年ぶり)の不名誉な記録で、この場所限りでの引退を勧告する声もあったが、本人は現役続行を志願し、翌場所から2場所連続休場して再起を図った。そして2000年3月場所に復帰したものの、満足な相撲が取れず、5日目に栃東に敗れたのを最後に遂に引退を発表した。年寄藤島を襲名し、当初は後進の育成に専念するような発言をしていたが、引退相撲を終えて間もない2000年12月18日に突如日本相撲協会を退職し、タレントに転身した。
横綱時代は休場の方が多く十分にその役目を果たせなかったが、大関時代は大型力士が台頭する中で小兵の若乃花は下手をすると大負けしかねない状況だったが、休場明け等の場所を除いた場所では概ね二桁以上の成績を上げており、大関としては強かったと言える。その為に一部で「横綱に上がらなければ名大関として名を残せた」という声もある。また、力士生命にとって致命的になった足の怪我の容態は引退後も回復しておらず、後にテレビ番組において「将来、車椅子の生活になる事は避けられない」と医師から告げられた事を告白している。また、長男誕生直後に出演した『おしゃれカンケイ』(日本テレビ系)の中で、産まれて間もない長男とゲスト出演し「息子はお相撲さんには絶対させません」と笑っていたが、目は真剣そのものだった。この若乃花の昇進を最後に日本生まれの横綱は誕生していない(2007年3月場所時点)。この間魁皇・千代大海・栃東が綱取りに挑戦しているが、いずれも失敗している。横綱昇進後は実弟・貴乃花光司との不仲や離婚問題等ワイドショーを賑わす騒動に巻き込まれることが多かったが、本人によると「(ワイドショーで)騒がれた場所ほどかえって相撲に集中出来た」らしく、実際に騒がれた場所は好成績を残している(1998年9月場所12勝3敗・準優勝、1999年1月場所13勝2敗・優勝同点)。
日本相撲協会退職後はスポーツキャスター、タレントとして活動するとともに、全国に店舗展開する「Chanko Dining 若」、さらに「Korean Dining 66亭」、「&kitchen」、「Onii Chan and Kitchen(おにいちゃん&キッチン)」をプロデュースし、運営母体ドリームアーク社の代表取締役として実業家として成功している。(Wikipedia)
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